2017-01-01から1ヶ月間の記事一覧
高知市といの町との間には、決して急峻ではありませんが峠道があります。そのいの町側は、この宇治団地前停留所辺りから始まります。
いの町東部を流れる枝川。仁淀川と比べれば細い川ですが、その名のつく大字は流域の広い一帯に及んでいます。そして、JR土讃線とともに、とさでんの停留所にも、その名は使われています。
先程速報を見たところですが、取り急ぎ。
高知・嶺北を流れる穴内川に沿って北上を続ける土讃線。山と木々に囲まれた間を縫って走る間に、列車はぽつりと置かれた土佐穴内駅に差しかかります。
昨年暮れに地域協働学部生が参加した高知市土佐山での「清流鏡川棚田キャンドル」がテレビ高知さんで紹介されました。番組自体は放送済ですが、同社ウェブサイトの番組ページで見ることができます。
高知県庁から南に伸びる広い道。電車がその道との交差点を渡るとき、北側に高くそびえる高知城の天守閣がその威容を現します。そして交差点を渡りきれば、電車は県庁前の停留所に到着します。
高知から土佐山田を出ると、いよいよ四国の山々を縦断する旅が始まります。木々が生い茂る中を分け入ってしばらくしたところで、普通列車は新改駅に入ります。
残念なニュースです。
マニー・ラミレス入団合意から10日が過ぎましたが、高知は一部を除いてのどかです。今回はその一部のお話。
はりまや橋から西に進む電車通りの端は鏡川橋の交差点。そこから北に行く道路が高架で線路をまたぐその下に、土讃線の高知商業前駅ができたのは、そう古い話ではありません。
そのインパクトで全国に名高い「ごめん」駅。ただ、あの路面電車の赤い表示板に書かれた行先は、本来は「後免町」行。本物の「ごめん」駅は、JR土讃線と土佐くろしお鉄道が同じホームを分け合う乗換駅です。
火曜日の1月17日。順番が逆だと思われるでしょうが、私にとっては他の曜日でない、火曜日の1月17日というものに、重い意味があるのです。 22年前の1月17日も、火曜日だったからです。 1995年1月17日、後に阪神・淡路大震災と呼ばれる大地震が、私の住む街を…
後免町からはりまや橋に向けて走り続ける後免線。新木停留所はいわば郊外区間の最後の停留所。この後は、運賃均一の高知市内中心区間に入ります。
田辺島通から高知市内の中心街に向けて直進を続ける後免線。その途中で東新木の停留所に立ち寄ります。
清和学園前から山と川に挟まれた間をうねりながら走ってきたとさでん後免線の線路。田辺島通まで来ると、今度は両側に住宅街が迫ってきます。
後免中町から南国市内を、ほぼ一直線に走ってきた後免線。篠原駅まで来るとビルや商業施設からも離れ、住宅街が広がるようになります。
あのマニー・ラミレスが来るんですと。この球場に。しかも向こうから話を持ち掛けてきたんですから、高知の野球ファンからすれば大感激です。 いまだに現実味がどこかなく、当ブログはすっかり出遅れてしまいましたが、いくらなんでもスルーしてしまう話では…
薊野駅まで来れば、高知まではあと一駅。いくつもの坂を越えてきた普通列車が、ラストスパートを始めたところです。
一条橋駅から日本一短い間を歩き、清和学園前駅に来ました。同じ駅内の乗り換えでもっと歩くのは当たり前、とさでんでもはりまや橋の南北・東西のホームが離れているだけに、異なる駅の間を歩いた感覚がしません。
日本で最も駅の間が短いのは、とさでん交通後免線の一条橋から清和学園前の間。100メートルに全く及ばない距離の間に、2つの停留所が収まっています。
とさでんの東の端から、後免町、後免東町、後免中町と、「後免」を冠した駅が続きます。そして「後免」を締めくくるのが後免西町駅です。
国道195号線、土佐中街道とともに曲がりくねる路線。その中でも最も急なのではというカーブのすぐ近くに、鹿児駅が置かれています。
高知市内を東へ東へと走ってきたとさでんの電車が、長崎駅にやって来ました。高知市内の東の端、最後の駅です。
風戸真理先生より、共編著のご恵投を頂きました。
1000年以上昔、現存する日本最古の日記文学「土佐日記」に綴られた土佐の地。書き手の紀貫之が土佐国司の任期を終え、都へと帰る道すがらに寄港したのが、この舟戸の地です。
年末年始は小豆島で過ごしてきました。2年ぶりの島の正月です。
かつての村の名を冠した大杉駅。時間帯によっては特急も停車する駅で、今も大豊町の鉄道の表玄関となっています。
明けましておめでとうございます。