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地域系学部というのに加わった大学教員による高知発モンゴル発のいろんなモノゴトや研究(?)もろもろ。

卒業していく皆さんへ、教員の1人から(2020年度版)

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 2021年3月。今年も通常通りの卒業式はできません。祝賀会もなく、卒業していく皆さんの多くには直接会えません。そこで昨年と同じく、こちらから皆さんにメッセージを発信できればと思います。代わり映えしませんが……

 

 

 さて、何か気の利いた一言でも言えないものか。そう思って頭に浮かんだのが、この一節でした。

 

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ・18:14)

 

 昨年も聖書の一節でした。その時は共同訳、今回は新共同訳という違いはありますが(どう違うのかは調べてください)、どのみち代わり映えしない気もします。

 とはいえこの言葉、私には今の世を表し、かつその中で生きる上で、とりわけ大事な戒めに思えてならないのです。

 世界中がパンデミックに襲われたこの1年あまりは、同時に、これまでなおざりにされてきたさまざまな社会の歪みが、もはや放置できないことを示すものでもありました。差別を差別として、腐敗を腐敗として、暴言を暴言として、侮辱を侮辱として扱わずに、なぁなぁで済ませることが許されない時の訪れでもありました。

 ここではあえて個別の事例は明示しません。むしろ、それは一人一人が自分で考えるべきことだと思います。

 ですが、それらの例がわれわれに与える教訓は共通していると思います。

 それは、生まれつきや本人の努力によらないところで有利な立場にある者が、不利な立場にある者を、さらに貶め、嘲ることが、もはや正当化されない時が来た、ということです。

 その立場の違いはさまざまなところに起因します。肌の色、ジェンダー、容姿、エスニシティ(この言葉が分からない人は調べましょう)、文化的背景、生まれ育ち、等々。ただ起因するところが何であれ、有利な立場にある者が、それを知ってか知らずか、不利な立場にある者を差別、搾取、蔑視、侮辱、嘲笑する例は後を絶ちません。

 これまでなら、それら多くは見過ごされてきたことでしょう。

 しかし、世界は変わってきています。社会を作る人々が、それらの不正義(あえて硬く重たい言葉で)に異議を唱え、正す動きへのハードルが下がっています。

 そして、そのような動きは、少しずつかも知れませんが、成果を生みつつあります。以前なら気にも留められなかったか、笑いのネタで済まされてきた、ジェンダーや容姿を嘲笑う発言が、世論によって咎められるようになっています。その果てに、高みにあった者がその地位を失ったこと、そして嘲笑われた方が「大人の対応」によって株を上げたのは、その表れです。高みに置かれた者が低くされ、低くされたものが高くされたということ(再度言いますが、個別の事例は示しません)。

 そのような中で、われわれは何をすべきか?

 手っ取り早いのは、「時計の針を戻す」ことです。人が人を堂々と差別できる世の中にすることです。

 なんてことを、と思われるかも知れませんが、そんな世の中を望む動きがないとは言えますまい。むしろ、世界に目を向ければ、そのような動き公然と行われているのを見つけるのは、不快なほどに容易です。

 そのような世を望む者に対して、私がかける言葉はありません。強いて言うなら、私の残りの人生に一切関わるな、というぐらいでしょうか。

 ただ、同時に私はこうも思います。そのような世の中において、「協働」はあまり意味を成さないだろうと。

 不当な格差のある両者間の協力は、少なくともわれわれが考える「協働」たり得ないからです。

 それは搾取や差別的な扱い、妥協の産物にはなっても、対等な主体どうしの働き合いになることは、定義からして不可能だからです。

 そうである以上、協働を試みる者は、対等性を常に目指さなければなりません。とりわけ自らより不利な立場に置かれた者に対して、その違いを悪用する危険を認識し、避けようとしなければなりません。差別を利用することは許されないのです。

 もちろん、これを貫くのが非常に困難なのは、私自身も経験から理解しています。社会が常に変化し、それによって新たな区別や分断が産み出される中で、これは永遠に未完の試みなのかも知れません。

 しかし、それでもできることがあります。それは、自らが有利な立場にあるのではないかと常に疑うこと、そして、何らかの形で、あえて低みに出ようとすることです。

 ここでも具体的な行為は示しません。それぞれが自身の人生の中で、自分なりの形を身に付け、実践しないといけないわけで、そうなると一般形を示せないからです(私の場合は自分を笑いのネタにすることですが、これが万人に合うとも思いません)。

 ただ、低みに出ること、媚びたりへつらったり、おもねったりするのではなく、へりくだることは、それ自体が自身を本来あるべき高みに近づけるであろう、そう私は確信しています。

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」元ネタは「神」の前での話です。とはいえ、世俗においても変わりはないはずです。

 自らが有利な立場にあったことに「感謝する」なんて間抜けな戯言には反吐が出ます。むしろ、その立場の違いにあぐらをかくのでも、目を背けるのでもなく、どうすれば変わるだろうか、難しくても考えてください。

 なぜなら、それは、大学生活で取り組んだ協働を、大学だけで終わらせないために、そして協働を、これからの人生を切り開き、社会を少しでも生きやすい方向に変えていく武器にするために、必要なことだからです。

 あえて低みに出て、高くされてください。

 皆さんの健康と、皆さんそれぞれが自分の幸せをつかみ取ることを願っています。