はりまや橋方面からが朝倉駅前を過ぎると、いよいよ伊野線は市街地から郊外に入っていきます。その最初の駅が、朝倉神社前です。
JR朝倉の駅前交差点を電車が西に進んだところ。ここで電車は伊野方面への幹線道路を横切り、北側の道端を終点伊野まで走っていきます。2車線とはいえ交通量の多いところですが、踏切等もなく電車はただ横切ります。
ここからは伊野方面に向けた軽い峠道。とはいえ電車にはきつめの上り坂が始まります。
うねりながら坂を上る幹線道の北端に、舗装のない単線の線路が敷かれています。
事実上の路面電車専用軌道で、電車が峠越えに挑み始めたところで、朝倉神社前の停留所が姿を現します。と言っても北側に立つビニールの屋根がなければ、車なら見過ごしてしまうかも知れません。
朝倉神社前、上りはりまや橋方面行のホーム。道路より僅かに高いだけ、小さな屋根を除けばベンチも何もない、ささやかなホームです。
下りの伊野方面の乗り場は、舗装の上に区画が記されているだけ。手前の朝倉駅前から鴨部の乗り場と違って道端なので、危険な感じはまだ薄いですが、一目では乗り場と識別しにくい区切りです。
停留所の南側で、「史跡野中婉女邸跡」という看板を見つけました。
地域実習の行き帰りで何度も通っている道ですが、今日の今日まで史跡があるとは気づいていませんでした。
道路から折れて少し登ってみると、石碑と説明版がありました。
野中婉。土佐藩で改革者として辣腕を振るいながら、圧政者として最後は非業の死を遂げた野中兼山の四女。その男系の子ども、つまりは婉の兄弟が死に絶えるまでの40年間、彼女は幽閉の身であり続けました。そして禁が解かれた後、彼女は朝倉に移り、医者として生涯を過ごしました。
石碑は、そんな彼女の旧居を紀念するもの。
ただ、石碑が建つのは車のほとんど絶えない幹線道路の近く、少しだけしか奥まっていない場所なのに、注意してみなければ気づかれにくいものになっています。彼女の生涯を象徴するようなものなのか。
そんな石碑のすぐ近くにある停留所。東行の電車は乗降客もなく、ただ通り過ぎていきました。
(参考)高知市歴史散歩「172 女医・お婉(えん)さん(一)」 -高知市広報「あかるいまち」1998年2月号より-