役場から少し歩いて、劇場「ゆすはら座」へとやって来ました。70有余年の歴史を持つ木造の芝居小屋です。暖簾がいかにもな芝居感を醸し出しています。
ゆすはら座は戦後間もない1948年に建造された芝居小屋で、1995年に当地に移築され、今に至るまで遺されています。
堂々たるこの正面玄関の様相。今よりはるかに道路事情が悪く、町までの往来が難しかった時代に、これほどまでの劇場を構えられたことに驚かされます。
内部に入ります。当然ながら全て木造の屋内です。楽屋も全て木造です。覆いとなる壁材も何もありません。
梼原で受けたインスピレーションを町内外の建築で遺憾なく発揮している建築家隈研吾氏。建築の審美眼が全くない私ですら凄いなと思うのですから、プロフェッショナルがこういう建物を見たら、そりゃ衝撃だろうなと思います。
林業華やかなりし頃、ここには遠隔さをものともしないさまざまな劇団が訪れました。楽屋の各所に記された署名には、驚くべき名前が連なっています。
30年以上前から今に遺る宇野重吉一座の公演チラシ。繰り返しますが今より道路事情の悪い時代、こういう公演が打てたのです。今にこのチラシが残るからには、さぞ盛り上がったことでしょう。
舞台に上がることができました。決して大規模とは言えませんが、2階席まである堂々たる客席です。
私も20年以上前は舞台に上がる側だっただけに、世が世なら、という欲求も湧いてくるのですが、そんな場合ではないので、次に進みます。
2階席に上がってみました。舞台には近いので、2階だからと言って遠さは感じません。
座席はこの通り。かつては家族で連れ立って、おそらくは観劇する方も晴れの舞台とばかりに着飾ってこの席に座ったことでしょう。
そんな戦後からの人々の営みに思いを馳せますが、梼原の歴史は当然さらに遡ります。とりわけ江戸幕府再末期、日本全体の変化の胎動が起きていたのがこの町なのです。
劇場を後にして向かったのは、そんな動きを生み出した場所のひとつです。土佐藩からの幕末志士の支援者、掛橋和泉の旧邸です。
今に遺る掛橋和泉邸。今はかつての庄屋で天誅組を組織して斃れた吉村虎太郎の屋敷跡に移設されています。
囲炉裏に徳利が置かれているのに心を惹かれます。ここで多くの志士たちが談義を交わしたのでしょう。
そのような談義に加われればという思いも感じますが、当時の人々よりはるかに諸外国の状況を知ってしまったわれわれが混ざったとして、単に邪魔にしかならない気もします。
天井まで吹き抜けになった上部。
あるいは、昔なら藩に追われた者を隠す部屋でもあったのでしょうか。
幕末どころか明治すら遠いという表現では済まされないほど隔絶してしまった今となっては、想像する由もありません。