夏と年末に取り損ねた休業日を年度内に消化しないといけないのをいいことに、先月末に県内西部を北から南まで、端までとは言えませんがそれなりに縦断してみました。北側の出発点は梼原町、かねて訪れるべきだった町です。
幼いころから30年余りを西宮市で、そのうち20年余りを浜甲子園団地過ごした私にとって、梼原町は高知県の中でも特別なところです。
というのも、現在友好都市となっているこのふたつの自治体の間が交流を始めるきっかけとなったのが、町と団地との交流事業で、その初期の頃を目の当たりにしているからです。団地の秋祭りには梼原町から牛串の露店が来て、これがまたおいしかったんですよね。子どもにとっては大金の500円を握って食べに行ったものです。
さらに、学部では大阪外国語大学(現存せず)で専攻語モンゴル語のクラスに所属。大先輩の作家司馬遼太郎氏のライフワーク『街道をゆく』でも檮原街道は大きく取り上げられていて、ここでも縁ができたのです。
なので、高知に移ってからというもの、梼原町はかねてより是非とも訪れるべき町だったのです。ただ、諸々の事情で予定が取れなかったり、雪で行けなかったり(タイヤチェーンが要るレベルですからね、真冬は……)と、ずるずると年月が経ってしまったのでした。
ところがそんな折、「雲の上のホテル」が建て替えになるという話が入ってきました。
1994年建設ですから30年経っていないのですが、バブル期や直後の建造物というのは、まぁ、いろいろ(苦)。ともあれ、建て替え前に一度は泊っておかないと後悔する、というので、雪が溶ける時期まで待って、ようやく町を訪問することができたのでした。
ただ、梼原町と言えば他にも見るべきところはいくらもあります。中でも外せないのが、町中心部各地に建つ建築家隈研吾氏による建造物。木材を重用するようになった現在の作風の根幹を成す作品群というべきなだけに、建築には素人の私でさえも必見であることは分かります。しかもガイドツアーまであるというので、今回お願いしてみることにしました。
まずは梼原町総合庁舎。役場や商工会が入る街随一の拠点です。
大きな梁が何本も突き出す姿には、現代風の神殿という印象を受けます。
中に入らせてもらいます。
役場の正面は、実は大開きのできる扉になっていて、お祭りやイベントの時は開放するとのこと。この状況なのでそういう機会は作りづらいでしょうが、それでも実際に見てみたいものです。
あくまで役場なので各課の窓口があります。中央を広くとっているのは、やはり催事を考えてのこと。
東屋風の建物は移動可能。まだ3月なので、ひな人形が飾ってあります。
天井まで吹き抜けになっている中を、縦横に梁が通っています。釘は一本も使っていないとのこと、やはりな、と思いました。
こちらには雲の上のホテルに隣接する「隈研吾の小さなミュージアム」の模型が置かれています。
ミュージアム本体は左側の建物で、そこから延びるのは、雲の上の温泉への通路。ほとんどを中央右寄りの橋脚1本で支えています。力学上は全く問題ないのでしょうが、素人目で見ると橋脚はどうにも細く、えぐい構造だなと思ってしまいます。
総合庁舎からは劇場「ゆすはら座」に向かいます。
総合庁舎の駐車場の傍らに、中平善之進の顕彰碑がありました。
中平善之進、またの名を善之丞。檮原村の庄屋を務める彼は、江戸中期に土佐藩山内家が専売制を強化、農民からの強制買い上げを進めたことで困窮した農民を目の当たりにして一揆を組織、藩への強訴を決行します。
ために彼は藩により捕縛され、専売制で潤う問屋と両成敗とばかりに死罪に処せられます。しかし、処刑後に起こった災害を祟りと恐れた藩は後に彼の霊を祀り、専売制も廃止します。
後に「津野山騒動」として知られる命懸けの訴えを通した彼は、今も梼原の義人として伝えられています。
こちらは消防団の本部。最近になってできたようです。こういう小さな建物でも、どうにもこだわりを感じてしまいますね。
このすぐ近くに、町の栄華を今に伝える劇場「ゆすはら座」があるそうです。ガイドさんの案内で、連れて行ってもらいます。