東日本大震災で発生した巨大津波に襲われた松林の中で、ただ1本生き残った松―こう書くと、陸前高田市の「奇跡の一本松」を思い起こす方は少なくないでしょう。
ですが、福島県南相馬市にも、巨大津波を耐え、そして今も命をつなぐ一本松があります。昨年、その一本松を訪れる機会を得ました。
南相馬へは仙台からバスで向かいました。途中の道の駅で昼食をとり、地元ボランティアの語り部の方によるお話を伺った後、一緒に松のほとりに向かいました。
ただ一面、太平洋に向けて広がる草地。2011年3月10日まで、ここがどのような景色であったのか、どのような人々の営みがあったのか、それを知るよすがはありません。
私も仕事柄、草地は見慣れているつもりですし、これ以上の規模の草地は当然ながらモンゴルで数えられぬほど見ています。ですが、その「広さ」が示すものは明らかに私が見てきたものとは異なる、重く、迫ってくるものです。
海岸線がいよいよ近づいてくると、一本松も目の前になってきます。
松の近くでバスを下車しました。
防波堤の再建工事が進む中、あの海が本当に近くに、否応なく目に入ってきます。
来し方を振り返ります。一本だけ伸びる道路は一本松の手前で舗装が途切れています。さらに先を見渡せば草が拡がるのみ、人々の暮らしがあるはずの場所は遠く、ようやく見えるか見えないかです。
デジカメの望遠を目いっぱい効かせると、野球場が見えてきました。実は、ここに来る直前にそばを通りかかった球場です。
南相馬、みちのく鹿島球場。規模からいえば二軍戦なら十分開催できそうな球場です。
2011年3月11日、大震災直後、この球場は付近住民の避難所となりました。少なくとも私の感覚では、海からの距離は「かなりある」場所です。
しかしながら、巨大津波はこの球場まで襲いかかり、グランドにいた人々を呑み込んでいきました。犠牲となった人の数は50人を超えるとも言われています。
振り返って、一本松のほとりへ。こちらの松は、今も自力で根を張って生きています。聞けば大震災直後には10数本の松が立っていたそうですが、その後の調べて残りは全て枯死状態だったそうです。それだけに、その生命力には感嘆するのですが、ただ同行の方からは「前来た時よりも弱ってきたなぁ」という声が聞かれました。
一本松を見上げます。かつては一面の松林の中の一本に過ぎなかった松。今ではたった一本で、風雪を耐えています。
その松を、同じく風雪、のみならず風説にすら苦しみながら耐えて生き抜かんとする人々が、何とか守り抜こうとしています。
自らの不勉強を白状することになりますが、この日南相馬を訪れる機会を得るまで、私は「かしまの一本松」のことを知りませんでした。しかし、いやだからこそ、こうして現地にまで来て、それまで知らなかったこの松を自ら見たことには、他では得られない意味があると思っています。
大震災から4年。その経験の風化が語られるようになりました。一方で、立場を問わず自らの主張に大震災の経験を都合よく利用する人だけは、消える気配がありません。
ですが、「風化」という以前に、そもそも知られていない事実が、いくらでもあるはずです。むしろ、そのような事実を、忘れられる以前に記憶されず埋もれかねない事実を、少しづつでも良いので掘り出していくことも、それはそれで欠かせないのではないか。そう思うようになったのです。
メディアが報じるかどうか、ネットで話題になるかどうか、そんなことはどうでもいい。私自身、あなた自身が、知らない事実をどれだけ知ろうとし、受け止めようとするのか?まずは、それを問うてみることも大事ではないでしょうか。
「もう1つの悲劇」「もう1つの奇跡」「もう1つの希望」…それらを、自らの手で探し、蓄積し、長く止めていくこと。
ここで書くほど簡単ではないことは私も百も承知ですが、それはあの日から4年を生き延びた―私からすれば「もう1つの『あの日』」に生き残って20年ほど経った、というのもありますが―私にも、あなたにも求められていることですし、何より自らがこの時代をこの国で善く生きるための、ありうべき1つの方法だと思っています。
このエントリを書くのに調べ物をしている過程で、みちのく鹿島球場が今季復活し、東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍戦が開催されることが分かりました。
みちのく鹿島球場で7月20日楽天2軍戦 | 県内ニュース | 福島民報
ここにも、もう1つの希望があります。
[BGM] 「アイナふくしま」(福島県いわき市・スパリゾートハワイアンズ)
[謝辞] 今回のエントリは多文化関係学会第13回大会プレカンファレンスでのフィールドスタディの結果に基づくものです。プレカンファレンスを企画した多文化関係学会の皆様、ご同行いただいた皆様、語り部の安部あきこさんに感謝申し上げます。