第12回ウランバートル国際シンポジウム「ハルハ河・ノモンハン戦争80周年:歴史、記憶そして教訓」に参加、ハルハ河・ノモンハン戦争(ノモンハン事件)を扱った日本のマンガに関する研究報告を行いました。
2008年から毎年夏に行われるウランバートル国際シンポジウム。今回はモンゴル・ソ連と日本・満州国との間で発生したハルハ河・ノモンハン戦争80周年ということで、この戦争がテーマとなりました。
日本では「ノモンハン事件」として知られるこの出来事ですが、実際には数ヶ月にわたって続いた「戦争」と呼ぶべき規模のものです。この辺、詳しくない方は日本史の教科書を見るか、この際wikipediaでも構わないので参照してください。
現在のモンゴル国、当時のモンゴル人民共和国にとっては、ハルハ河・ノモンハン戦争は自国の存立をかけた戦いであり、この勝利は今も全国規模で祝われています。他方、旧満州国のモンゴル人もこの戦争に参加しており、ハルハ河・ノモンハン戦争は同じ「民族」どうしが戦う悲劇でもありました。
他方、日本では、「ノモンハン事件」がたびたび文学作品において取り上げられています。それらに共通するのは、簡単に言ってしまえば、軍上層部の失態と隠蔽体質、そのせいで最前線で絶望的な戦いを強いられた日本人兵士・士官の悲劇というようにまとめられるでしょう。そして、このような側面を強調すること自体は、決して間違ったこととは言えません。
ただ、そのような作品に対しては批判もあります。ハルハ河・ノモンハン戦争が(国際法上・事実上の地位はさておき)モンゴルの地で行われたにもかかわらず、その点の認識が薄いこと、認識があったとしても「無人の荒野・草原」というぐらいで、そこに暮らしているはずのモンゴルの人々が抜け落ちていること、さらにモンゴル人が出てきたとしても、あまりに平板なステレオタイプで描かれていること、等々です。「機械化されたソ連軍相手の無謀な侵略」という側面が強調されるあまり、交戦相手や戦場が遠景化され、ひたすら日本軍内部のことのみが語られる、とも言えるでしょう。
もちろん、そこには考慮すべき事情を認めねばなりません。ですが、戦闘は相手と戦場があってはじめて成り立つものです。それらへの視点を含めた作品が今もないとすれば、それは決して歓迎できることではないはずです。
ただし、「ノモンハン事件」は文学のみならず、マンガでも取り上げられることがあります。むしろ、マンガが完全に定着した今の日本を考えれば、「事件」(残念ですが、日本社会ではまだ「戦争」とは言い難い)が国内でどう語られ、描かれているかを探るには、そのようなマンガも有効な材料となるはずです。そこで、今回の研究を始めたわけです。
研究の結果については、もう少し詳細にまとめてから論文化しますが、差し当たり、当日のスライドをPDF化したものをResearchgateにアップしましたので、そちらをご覧ください。
■ Unseen Khalkh(yn) Gol, Unseen Mongolians? Nomonhan in Japanese Mangas
今回対象にした4作品、今までの人生でここまでマンガを真剣に読んだことはなかったのではないかというくらい読みました(笑)
ただ、どの作品も自分にとって大事なものになったのは確かです。議論上、批判的に取り上げざるを得なかったものもあるのですが、作品そのものを否定するつもりがない点はご理解ください。
また、今回の研究は私にとって、マンガばかりか創作作品を分析対象にした初めてのものです。そのため、マンガ研究としては素人臭いものであろうとは思います。
しかしながら、「モンゴルをどう理解するか/モンゴルがどう理解されているか」という私の関心からすれば、避けては通れなかった分野であるとも思っています。それだけに、何とか論文としての公刊まで持ち込み、その上で批評を仰げれば幸いです。