2日目の朝は雨になりました。曇りの予報に抱いていた楽観は一瞬で飛びました。今日の予定がダメになるわけではないのですが、少なからず厄介なことになってしまったのです。
この日は午前中に仙台市内の日和山登頂を計画していました。天気が悪くならなければ、仙石線の中野栄まで行って、レンタサイクルでアタックをかける計画だったのです。走行距離は片道4キロ、坂道もなさそうですし、なんてことはない距離です。
ただ、雨が降ってしまった以上、この手は使えません(レインコートを持っていけば良かったんですが……)。そうなると、1つ手前の陸前高砂で降りてバスに乗り、途中で降りて片道3キロ近くを歩かないといけません。後の予定も考えれば、時間もタイトになり、一気に条件が厳しくなってしまいました。
仙石線に乗りながらつないでいた一縷の望みは、陸前高砂到着であえなく消失。ご覧の通りの雨の中、落胆と不安とともに、電車を降りました。
ただ、改札のある上り線に移ってみると、ちょうどマンガッタンライナーが入ってきました。地元出身の漫画家石ノ森章太郎氏の縁でデザインされたラッピング電車です。ここで降りることになってなければ、撮影はできなかったはずで、人生何が幸いするか分かりません。
先述の通り、ここからはいったんバスに乗ります。ただ世間は平日の朝、道は混んでいてバスも遅れ気味です。不安はますます募ります。
結局目的のバスは10分遅れで到着。とにかく乗り込んで目的地を目指すしかありません。
バスは出発後はスムーズに走り、終点の中野新町停留所に停まりました。ここからはいよいよ自力で日和山へと向かいます。
仙台市宮城野区、太平洋の海岸に位置する日和山。現在「日本一低い山」として、一部の注目を集める山です(もっとも、他にも「日本一低い山」はいくつかあるのですが)。
ただし、その歴史は波乱の連続です。もともと標高6メートルの山として国土地理院に記録されていた日和山は、1996年に標高4.5メートルの天保山(大阪市港区)が記録に加わったことで、日本一の座を失います。
そして2011年、東日本大震災の津波によって周辺は壊滅的な被害を受け、日和山も消失してしまいました。山自体がなくなってしまったのです。
しかし2014年、国土地理院による被災地沿岸の測量で、標高3メートルの「山」が存在することが認定されます。これにより、日和山は天保山をも下回る「日本一低い山」として復活したのです。
それ以来、ネットでも日和山登頂者の記録が出回るようになります。
■ 18年ぶりに日本一低い山になったけれど……「日和山」【宮城】
天保山、弁天山(自然山として日本一低い山)を制覇した私にとっては、日和山も当然目指すべき目標です。そして今、いよいよ登頂の機会を得たのですが、に加えて風まで出てきて、傘が振られる最悪に近い状況です。これは相当慎重、とはいえ迅速に行動しないといけません。印刷しておいたgoogle mapを基に、日和山のふもとへと向かいます。
バス停から歩いて、七北田川沿いに来ました。対岸は今も堤防の補修中のようで、高いクレーンが首を動かしています。
堤防のこちら側は補修が済んでいるようで、真新しいコンクリートと道路が延びています。干潟への経路を示す案内標識も、おそらくできて間もないものです。
しかし、道路の左手を見れば、ほとんどが更地のままになっています。
大震災から7年余り、戻ってきた家屋や工場はまだ少しでしかありません。奥の街並みのあるところと手前のないところ、くっきりと分かれています。
堤防沿いにはお地蔵様が祀られています。ここも大震災でいちどは流されてしまったはずです。
海岸まで見通せる、今も開けたままの土地の中に、小高い築山がありました。日和山?いや、それにしてはあまりにも高過ぎます。
築山の手前には、大震災の犠牲者への慰霊塔が立てられています。周囲はロープが張り巡らされていていたのですが、見ると仮設の階段があり、そこから中に入れるようになっています。階段自体は封じられておらず、ここから入る分には問題はないものと判断し、入ってみることにしました。
並んでいるのは、小学校の記念碑のようです。小学生による絵もあります。しかし、肝心の学校は、どこを見渡してもありません。痕跡すらありません。
さらに見ると、百周年記念碑の横に、閉校記念碑が置かれています。
閉校になった小学校は高知ならいくらでも見かけますし、珍しくも何ともありません(それはそれで問題ですが)。ただ、そういう所は小学校の建物が残っていたり、跡地が別の形で利用されていたり、何がしかがあります。しかし、ここはいくつかの記念碑と築山があるばかり。周囲も更地が広がるばかりです。小学校があるような街や集落だったことを示す、何物もないのです。
閉校記念碑を見ると、2011年東日本大震災で校舎被災。その後は別の小学校で授業を再開したものの、5年後に閉校になった、ということです。今も街そのものが見当たらない以上、そして津波で襲われた場所に学校が位置することになってしまった以上、致し方ないことなのかも知れません。
築山のふもとには、おそらくは周辺にあった地区の概要を示す石碑が並んでいます。
残念ながら、往時の街をは知りません。そして、荒天の下に一面に広がっている、雑草の生い茂る更地一帯から、かつてあった風景を想像することは、どうしても私にはできません。しかし、ここにはかつて街が、人々の営みが、子どもたちが学び、遊ぶ場所が、あったはずなのです。
ふと我に返りました。日和山に行かないと。手元の地図を見る限り、どうも本来のルートから外れているようです。しかし、地図にある道路と、目の前の道路とは、どうにも一致するように見えません。目標物となるものもなく、完全に道に迷った状態です。
ここで引き返すか?時間も限られてきました。しかし辺りは冬山でなし、遭難の恐れはまずありません。道が分からずとも、日和山は海岸にあるんだから、海の方角に向かっていれば何とかなるはずだ。荒天の中で弱まる判断力が出した答えは「強行」でした。幸いスマートフォンのバッテリーは十分、位置情報は何とかなります。海岸へ、とにかく海岸へ、しかし目の前の道は入り組み、空き地を横切るのも憚られます。いくらなんでも、もう無理かも知れない、そう思った本当にその矢先でした。
日和山への案内板……!
どうやら山までのルートに乗れたようです。我ながら、悪運の強さを確認することができました。
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