四万十市は中村で宿泊して2日目スタート。この日は途中より道も混ぜつつ、四万十川中流域を巡ります。写真は朝食のミレーぼうしパン。高知の定番ぼうしパンに、これまた定番のミレービスケットを入れ込んだものです。
ちなみに、中はこんな感じ。ボリュームは十二分です。ものっそ小麦粉です。喉が渇きます。
というので腹ごしらえを済ませて中村を出発。四万十川と不即不離の国道441号線で、北西方向に走っていきます。そして四万十川と言えば沈下橋。
最初に立ち寄ったのが高瀬沈下橋。車を降りると、川の香りと言うより磯の香りが漂ってきました。海までは相当距離があるはずですし、何故かは良く分かりません。
足元の銘板によれば、この橋は架設から50年も経っていないとのこと。沈下橋と言えば昔ながらのものと言うイメージがあるので、正直なところ意外でした。
橋の反対側にも何かあったようですが、崩れています。車でもぶつかったのでしょうか。もしそうだとしたら、このぶつかり方だと車が弾みで落ちなかったろうかと気になります。
沈下橋は増水時に沈むようにできています。高い橋脚はかえって不要、両岸からはいったん下ってから橋を渡ることになります。
橋の向こうの集落。沈下橋は元来このような集落の人々にとっての生活道路です。ただ、いずこも同じ人口減で、かえって観光客や旅行者が目立ってしまい、観光スポットになってしまう。
そんな皮肉な現実を、以前流域の役場の方から聞いたことがあります。
そんな人間の現実はさておき、川は滔々と流れます。
こちらは下流側、と言っても進む先は山々に囲まれていて、河口はまだまだまだまだ遠い先です。
川の途中に留まっているのは、流木でしょうか。
こちらが反対の上流側。この先にも沈下橋や流域の集落はいくつもあるのですが、遠く離れて望むことはできません。
では、再び国道に戻り、先を目指しましょう。
川が大きく蛇行するところで、先程とは違って瓦が広々としています。その川原に狭い舗装道が敷かれ、通りきったところで、ようやく沈下橋が始まります。
短く細い橋脚。四万十市のウェブサイトによれば、三本足の沈下橋は珍しいのだとか。
橋の向こうに、開通を記念した石碑が立っていました。これも四万十市のサイトによれば、開通は昭和34(1959)年とのこと。こちらも戦後生まれです。
沈下橋へと続く道。よく見れば舗装道は識別できますが、川原の砂利にだいぶどうかしているようにも見えます。
これから暑くなる時期。川遊びでも楽しみたい気分にはなります。
ただ、広い川にはその分危険もあります。くれぐれも注意しないといけません。
勝間の沈下橋から車で20分強、岩間四万十茶屋前に来ました。ここはかなりの高台になっていますが、下に降りれば、岩間の沈下橋が架かっています。
ただ、沈下橋は一部が撤去され、通行できなくなっています。
2017年11月、橋脚が腐食によって折れ曲がってしまい、橋の途中がV字型に沈下。われわれが訪れた時も、復旧工事の最中だったのです。
腐食した橋脚と床板が撤去された沈下橋。小さな橋と思われるかも知れませんが、地元の住民にとっては貴重な道路で、その分不便を強いられているのです。
屋形船乗り場の案内が出ています。四万十川では大小さまざまな屋形船や船着き場を見ることができます。
眼下に見えるのが屋形船のようです。
沈下橋が使えない今、こちらを渡し舟にできないものか、という考えが一瞬よぎりましたが、山奥の集落のこと、十分な需要は確保できんろうとすぐに思いました。
復旧工事の案内が出ています。あのぐらいの橋の復旧など簡単に思われるかも知れませんが、見てみると結構手間がかかる模様。橋が再建されるまでは、まだ1年ぐらいはかかりそうです。
川のこちら側は、国道も通り、少なからぬ旅行客を乗せた車やバスも立ち寄っています。
ただ、反対側は橋の手前で行き止まり。工事もこの日はお休みで、人の気配はありません。
床板ベンチという案内を見つけました。橋の復旧工事で撤去した床板の一部を、ベンチとして使っているとのことです。
傍らを見ると、長いコンクリートが置かれています。白線が引かれた後があることから、かつての橋の端だったことが分かります。
橋が落ちてもただでは起きない。四万十川流域民のしぶとさを感じます。
隣には演歌歌手三山ひろしのヒット曲「四万十川」の歌碑が立っていました。
時期が時期なら、これも岩間沈下橋の床板で作られていたのかも知れません。とは半分冗談ですが、どうしても半分だけになってしまうのが、なんとも。
(参考)四万十市ウェブサイト
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