銅像が引っ越した先の岩崎弥太郎生家へ。現在は無料で開放されています。
屋敷の前にある解説板。「中農の屋敷」とあります。岩崎家は戦国時代に遡る武士の家でしたが、弥太郎の曽祖父の代に郷士(土佐藩において、家格が低い武士の位の1つ)の株を売り、地下浪人となった、と言われています。
ただ、こちらが生家の門なのですが、扉はないものの紛うことなき門に見えますし、生垣もしつらえてある。「浪人」というと食い詰めているイメージがどうにもあるのですが、これを見る限り、そのような感じはありません。
で、こちらが生家。武家屋敷としてどうかと言われると難しいですが、当時このような庭付きの屋敷に住めた百姓がどれだけいただろう、とは思います。
庭園の石組。左上で斜めに置かれている石は、弥太郎が日本列島を模して配置したもので、氏の野望を示すものと伝えられています。
屋敷の東側にある部屋。ここが弥太郎の生誕の地とされています。
屋敷の奥には土蔵もあります。
十分立派な作りで、これまた「浪人」のステレオタイプとは結び付きません。
土蔵の壁にあるのは岩崎家の家紋ではなく、三菱のマークです。
土蔵で保存されていたポンプ。色や車輪の形からして、後代に仕入れたものでしょうか。
屋敷の西北にも蔵が建っています。これだけ蔵があれば立派なものですが、はたして弥太郎が生まれた当時からあったのか、後に建てられたのかという疑問も出てきます。この辺は、専門家の教えを乞いたいところです。
その蔵の西側に回ると、こんな看板が……
土佐に限らず、この季節少しでも藪になっているところに行くとマムシが出てくる恐れがあります。私は幸いまだ見たことはありませんが、本当に気をつけないといけませんよ。
生家のすぐそばに、弥太郎生誕の地を記念する碑が建てられていました。
記念碑の解説。こちらは随分前に建てられていたようです。碑の状態が良いので、まったくそのような感じはありませんでしたが。
それにしても、この生家を見る限り、弥太郎が生まれた当時の岩崎家が極端に貧しかったような様子はどうにも伺えません。もちろん先祖が生活に窮していたから郷士株を手放したのでしょうが、それでも貧農には望むべくもない屋敷を構えていたわけですし、弥太郎自身も幼い時から学問を修めるなど、それなりの余裕も感じます。
こう考えると、こと弥太郎に関しては龍馬伝の風評被害(?)っというのを考えてしまいます。あげく強烈なキャラが印象付けられて、蘇ってまでコミカルになっちゃってますし。もっとも、あの風貌とキャラクターがなければただのイケメン、という説も聞きますが。
(参考)
●岩崎弥太郎生家について:社団法人 安芸市観光協会 - 志と文化のまち 高知県安芸市 - 岩崎弥太郎生家
●土佐藩(山内家)の家格制について: