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「地域」研究者にして大学教員がお届けする「地域」のいろんなモノゴトや研究(?)もろもろ。

プレブジャブ先生の思い出



 

 学生時代にモンゴル語を教えていただいたE.プレブジャブ博士が急逝されたとの知らせを受け取りました。まだ信じられない思いが消せませんが、心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

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 プレブジャブ先生は私が学部2年生の時、大阪外国語大学(現存せず)モンゴル語科の客員教授として赴任されました。

 仮進級や留年が当たり前だった当時の大阪外大において、モンゴル語科は「アジア三大楽園」の1つと言われる例外的存在でした*1。われわれの学年も多分に漏れず、実のところ私も含め、モンゴル語の勉強は総じて適当なものでした。

 そんな中、先生が担当されるモンゴル語会話が始まります。当時の2年生の会話授業は日本人教員の補助がなく、日本で着任間もない先生がひとりで日本人学生20名余りを受け持っていました。

 なので授業内の会話もモンゴル語が主になるのですが、当然ながら不勉強な学生たちは話すのも聞くのも覚束ない。それでも何とかやり取りをして、「モンゴル語で知っている単語を言いなさい」という話になったのですが、1人10語を挙げられれば良い方です。流石に困惑したのか、「ダメだなぁ (муу байна)」とつぶやかれたのを、今も覚えています。

 そういうマイナスからの会話の授業は、決してゆるいものではありませんでした。今となっては授業の詳しい内容は思い出せませんし、一方で厳しい態度や言葉で臨まれた記憶もないのですが、「楽園」に慣れきった身にとっては、なかなか大変な先生に当たった、と感じたのは確かです。

 そんな折、大学付近でモンゴルに関心のある人たちが主催するサークルに参加することになりました。今とは比較にならないほどモンゴルの情報がなかった時代、月1ペース(だったと思う)の集まりは本当に貴重な機会でした。

 そのサークルに何回か参加しているうちに、プレブジャブ先生をお見掛けするようになりました。相変わらず私のモンゴル語は上達せず、むしろ先生の方が日本語をかなり覚えられたので、なかなかモンゴル語での会話はできなかったのですが、それでも大学とは異なる先生の柔和な表情に接することができたのは、私にとっては発見でした。

 そして学部3年生の夏、私は初めてモンゴルに行くこととなりました。関空からの飛行機が10時間以上遅れてボヤント=オハー国際空港に着いたところから始まるドタバタ紀行、中でも最大のヤマ場はコレラが発生したために全国が封鎖され、北部ダルハンで足止めを喰らったことでした。この経験については以前寄稿したことがあります。

 

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 実はこのとき、偶然ダルハンに居合わせたおひとりが、プレブジャブ先生でした。当時の経験については上記原稿をお読みいただければと思いますが、無事日本に戻って再会して見ると、もちろん相手は「先生」なのですが、むしろ「同じ苦労を経験した相手」としての親近感が湧いたものです。

 それから大学を卒業し、別の大学院に移ったことで、先生から直接教えを受けることはなくなりました。ただ、先生とお会いする機会はその後も続きました。日本での学会でご一緒することはありましたし、モンゴルでの学術会議でご挨拶させていただくこともありました。

 この間、先生はモンゴル研究、とりわけご専門の言語研究の第一線にずっと立たれていました。2016年の国際モンゴル学者会議では、大手紙のインタビューを受け、記事が大きく掲載されていました。半ページはあったと思います。

 ただ、それでも出来のイマイチな教え子の私をずっと覚えてくれていて、かつ偉ぶることもなく接していただけたわけで、それを思い返すと、先生の人柄が偲ばれます。先生は大阪での任期を終えられた後、東京外大でも教鞭をとられました。日本に2つあるモンゴル語科の双方に招かれるというのは珍しいことで、先生の能力と人望の何よりの証しです。

 それだけに、先生の訃報を聞いた時には言葉を失いました。コロナ禍が収まって学術交流が復活する中で、またモンゴルや日本で先生にお会いできることもあるかと思っていたのに、突然のことで叶わなくなってしまったのは、ただ無念です。

 正直なところ、まだ信じられない、信じたくない思いはあります。

 ですが、今は先生のご冥福をお祈りするよりありません。

 

     Ум мани бадмэ хум.

 

*1:残り2つがどこかについては諸説あります。もっとも、私が2年に上がった時に1つ上の学年から3分の1の学生が落ちてきましたが。