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NHK交響楽団第1906回定期公演に行ってきました(2)パーヴォ・ヤルヴィ&N響、白熱の快演!

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 パーヴォ・ヤルヴィの指揮の下、NHK交響楽団がついにハンス・ロットの交響曲第1番を演奏します。リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲とのプログラムです。

 

 

 ハンス・ロットと彼の交響曲第1番については、以前かなり長く書いたので、そちらをぜひご一読ください。

 

3710920269.hatenablog.jp

 

 今回はロットの交響曲第1番をメインに据え、その前にワルツ一族とたまにごっちゃにされるリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲を置いたプログラム。パーヴォ・ヤルヴィは首席指揮者に就任して以来、N響とのリヒャルトの演奏に力を入れていて、こちらも良い演奏が期待できます。

 ……が、実のところ、私、リヒャルトはあんまり好きじゃなかったんですね(汗)

 というか、彼が得意な分野のオペラと交響詩が、私の守備範囲からずれる、というのが正確かも知れません。意外に思われるかも知れませんが、クラシック・ファンとオペラ・ファンは似て非なるところがあって、もちろん両者を兼ねる人もいますが、私は明らかに前者に属します。また、交響詩については、私が愛聴するのは北欧やロシア・東欧の作品で、ドイツ物はどうも合わないのです。おそらく、過度に外面的に聴こえるのが理由ではないかと自分では見ています。

 で、リヒャルトは交響曲でも大作を遺してはいるのですが、その「外面的」というのがどうも気になり、以前家庭交響曲を聴いた時には正直引いたので、他に食指が動かなくなったのです。さらに、彼にこびりついた「第三帝国音楽院総裁」の肩書も、私をして敬遠せしめる原因の一つかも知れません。

 ただ、今回の作品はそのようなイメージとは全く異なる者でした。若い頃に書いた純音楽ということもあり、むしろ良い意味で「普通の音楽」じゃないか、という印象を得た次第です(もっとも、「純」音楽かどうか自体で音楽の優劣が決まらない点はご理解ください。あくまで好みの問題です)。第1楽章でいつカデンツソリストが伴奏なしで技巧を示す、協奏曲最大の見せ場)になるかと思ったらいつの間にか終わったときには「?」と思いましたが、違和感を感じたのはそれぐらい。むしろ、初めて聴く曲とは思えないほど、すんなりと受け入れることができました。ソリストのアリョーナ・バーエワも好演、オーケストラとの間で、良い意味で緊張感のある演奏でした。

 そして、いよいよです。NHKホールに、ロットの交響曲第1番が響く時がやって来ました。

 第1楽章、Alla brave(勇壮に)。フルートとヴァイオリンによる静かな導入に続いて、すぐさまトランペットが息の長い第1主題を歌いはじめます。途中ホルンの応答が入ると、それを受けてトランペットは再び第1主題を提示、この主題によって最初の盛り上がりが築かれます。それが収まった後、フルートとクラリネットが対称的に短い第2主題を奏し、これがオーボエ、さらに弦楽器にも広がっていきます。

 このあと、通常の交響曲であればこの2つの主題の展開部*1に移り、それが収まってから主題の再現、そしてコーダ(終結部)へと向かっていきます。ところが、ロットも展開部の途中まではまだ通例の方法を採っている(と言えなくはない)ものの、再現部の手前で盛り上げるだけ盛り上げると、ヴァイオリンやフルートの強奏で第1主題(ホルンの応答後のもの)が回帰、そのまま第2主題を変形したコーダに突入し、輝かしく楽章を終えます。

 ちなみに、第1楽章の最後の5小節、楽譜にはティンパニとトライアングルに対し、トレモロを極端に強調したかのような指示が記されています(ただし、楽典や楽器学のテキストにある表記法とは異なるので、謎はあります)。この部分も含め、コーダのトライアングルを印象付けるためか、パーヴォは驚くべき演出を行っています。ただ、特に土曜日公演のテレビ放送が今後ありそうなので、ここでは内緒にしておきましょう。まぁ、妻も私も愕然としましたが。

 第2楽章、Sehr langsam(非常に遅く)。「緩徐楽章」とも呼ばれるところで、基本緩やかなテンポで穏やかなメロディーが展開されます。ただ、この作品ではテンポこそ緩いものの、内容は波乱に富んでいて、対位法的な主題の積み重ねが繰り広げられる一方で、テュッティ(全楽器による演奏)による強奏が、ある時は明るく力強く、またある時は悲劇的な叫びを繰り返したかと思えば、最後は何事もなかったかのように、すっかり大人しく終結してしまいます。

 なお、この楽章の途中にはティンパニのディヴィジという衝撃的な箇所があります。奏者を分けて別々に演奏しなさい、というもので、大人数の弦楽器であれば普通にある指示ですが、作曲当時ティンパニは基本1人で演奏するものだったはずで、普通にやれば演奏不可能です。ただ、パーヴォはここに奏者を2人充てることで、楽譜に忠実な演奏を実現しています。妥当な選択だと思います。

 ただ、さらに極端なのが第3楽章です。しばしば「スケルツォ楽章」と呼ばれ、速めのテンポの3拍子の音楽が、テンポを緩めた中間部を挟み込む、形式的にも簡素な楽章にするのが一般的です。ロットの作品はテンポ・形式とFrish und lebhaft (新鮮に、また生き生きと)という指示こそスケルツォっぽいものの、あとの内容は第2楽章以上の混沌ぶり。ハ長調で始まったはずが、めまぐるしく変わる調性、過剰なほど躍動するティンパニとトライアングル、それらが中間部で落ち着きを取り戻したかと思いきや、トランペットの雄叫びとともに、音楽はさらに増した混沌、さらには百鬼夜行のおどろおどろしさの中へ。しかし、そこでトランペットが垣間見せる第1楽章第1主題の片鱗によって正気に戻ると、突如訪れた平静さ、しかしそこから音楽は俄然勢いを示し、ホルンが新たに得たメロディーも加わって展開、そしてコーダでは金管楽器ハ長調を破壊するかのような咆哮を続けますが、最後の最後に我に返り、たたきつけるように楽章は終結します。

 この描写を読んで、何が何だかさっぱり、と思われた方、多分正解です。この楽章は、後にロットを襲う精神崩壊を予告するような変転ぶりです。ただそれ以上に、この楽章はロットのライヴァルにして友人、マーラーの作品を予言するものです。文字にしてしまうと恐ろしいものに見えるかも知れませんが、むしろ安心してスリルに浸れる、と言う方が正当かも知れません。

 そして最終の第4楽章、Sehr langsam - Belebt(非常に遅く-活気をもって)。暗闇にいるような低音の歩みの中、第3楽章の残影が一瞬浮かびますが、すぐに消えてしまいます。その後はホルンからオーボエに受け継がれる悲しげな主題が徐々に広がり、オーケストラは悲痛な歌に包まれます。

 しかしそれが去ると雰囲気は和らいでいき、さらに雲間から光が差すように明るさを得た末に、この楽章で最も主要な主題をヴァイオリンが提示します。音楽はこの主題を基に勢いを得ていきますが、それが頂点に達すると、ティンパニとトライアングルの打撃とともに急速にしぼんでしまいます。ただ、その後は主題の冒頭部分を低弦が繰り返すようになり、その上に第1楽章の要素が次々と浮かんでいきます。そしてそれがオーケストラ全体に広がった末に、ついに第1楽章第1主題そのものが悠然と帰還、これに第4楽章主題も加わり、ついに全曲の結末が訪れます。ブルックナー(第1楽章)とブラームス(第4楽章)、相容れないはずの要素が止揚される時が訪れたのです。そして再び輝かしいクライマックスが去ると、音楽は再び静けさの中に返っていき、穏やかな中で終結を迎えます。

 パーヴォとN響の演奏は、この曲の魅力を、そのあらも含めて最大限引き出そうというものと思われました。私もこの曲の楽譜を持っていますが、今回の演奏は、そこに書かれた以上の豊かな響きを感じました。

 ただ、それを冷静に評することは、私にはできません。私はこの演奏に心を揺さぶられ、感動するばかりでした。そして第4楽章、序奏から主題に移るところで、もうダメでした。涙がこみ上げるのを堪えることができませんでした。

 貧苦と失意の末に心を打ち砕かれ、その創作に対して何の報いも与えられなかったハンス・ロット。しかし、彼はついに多くの理解者を得て、空前の「祭り」が実現したのです。

 私自身は行けませんでしたが、神奈川フィル常任指揮者川瀬賢太郎は、ロットの作品についてこんなツイートをしています。

 

 

 そして、以前にもこの曲を演奏、録音しているパーヴォは、この曲の魅力をこう語っています。

 

www.nhkso.or.jp

 

  演奏会の終了直後、パーヴォのサイン会に向かいました。列に並んでいると、常連と思しき方々が、こんな話をしていました。

 

 「ロットの交響曲、昨日も聴いたけど泣いちゃった」

 「ええ、知らない曲を聴かせるのは凄いですよね」

 「本当に力技ですよね」

 「第3楽章は凄かったですよね。今までの概念を打ち破ろうとしていた。だから旧世代に気にいられなかったのかな」

 

 彼らの演奏の力が、ロットの理解者を新たに生み出していました。

 そして、サイン会の順番がやって来ました。目の前にパーヴォがいます。演奏会を終えたばかりとは思えないほどの温和な表情です。ただ、間違いなく私に感動を与えてくれたその人です。

 「あなたが演奏するロットの交響曲を生で聞きたいと願っていました。今日夢が叶いました。ありがとうございました!」

 何とか話そうとしたのですが、途中で胸が詰まりそうになり、ただでさえ怪しい英語がもっとたどたどしくなりました。傍から見ていたら、ただのアブない人だったと思います。

 でも、どう思われようが構いません。そればかりか、さらに願うのです。この作品に出合えたことへの感謝、そしてそれが多くの人々を感動させていることを、ハンス・ロットその人に、どうにかして伝えられないかと。

*1:主題をさまざまに変形したり、調や楽器を変えたりなどして、手を変え品を変えて示していく、作曲者の腕前の見せ所。