日本で年の瀬と言えば「第九」。今年は高知でも演奏会があったのですが、それが一味違いました。高知交響楽団の創立85周年記念となる第157回定期演奏会で演奏された第九はベートーヴェン・ツィクルスの完結編。第1番から交響曲を全て演奏する企画が、ついに完結したのです。
高知交響楽団が足掛け5年にわたって取り組んできた、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏。私も去年高知に越してから、数は少ないですが聴きに行くようになりました。
こちらは昨年冬、第7番を聴いた時のエントリ。
一方こちらは第8番の時のエントリです。
そして、今回満を持して登場したのが第9番、ご存知「合唱付き」です。
さて、以前にも書いた気がするのですが、高知交響楽団のベートーヴェン・ツィクルスには大きな特徴があります。今回のパンフレットの言葉を借りれば「ウィーンでも通用するベートーヴェン」、つまりベートーヴェンの交響曲が持つはずの本来の音を再現すべく、当時の演奏様式や楽譜に忠実に演奏するというものです。
このような演奏はいきおい「虚飾を排する」という側面も持つものですが、実際には過剰なテンポの揺れや演出をそぐだけでなく、ときに素っ気ない(無表情ではなく、素っ気ない)ほどの表現で曲が先へと進んでしまう印象を受けることもありました。
そのような素っ気なさは音だけが伝えるものではありません。むしろ、指揮者の高橋敏仁氏の身振りにも感じさせられたものです。その極みだったのが各楽章の終止部で、普通の指揮者なら力が入りそうなところ、あまりにも淡々と、あっさり振り終えるのです(特に第1楽章)。これは意外感がありましたし、演奏会を見てこその発見でした。
そういうわけで、今回の演奏会から感じたのは、20世紀の名演と言われるような演奏から受ける「熱い感動」というのではありません。むしろ、「こんなんを初演で聴かされた方は相当困っただろうな」というのが率直な感想です。これは他の演奏会でも感じたことですが、こと第9番に関しては、第7番から古典的な形式の交響曲に戻り、第8番ではさらに古典度が増したところで一気にぶち上げた前代未聞の作品だったわけで、私がもし当時のウィーン市民なら、呆気にとられるほかなかっただろうと想像します。
ですが、そういう感想を持てたこと自体が、私にとっては収穫だと思っています。ベートーヴェンが当時の前衛を走っていたことを再確認できましたし、これは前世紀的、「楽聖」の大作を壮大に繰り広げる演奏では、実感できなかったことです。ベートーヴェンの交響曲はよくよく聴くとぶっ飛んでいて、実際虚飾を取ってみると確かにぶっ飛んでいる。それをヘンに祭り上げるのもどうかという話なのですが、ただその時代から見てぶっ飛んでいたからこそ偉大なのだ、という気があらためてした次第です。それが、第9番に限らず、ほんの一部とはいえ今回のツィクルスを通して聴いたことで得られた再発見(と言っていいのか分かりませんが)と言えるでしょう。
何より、練習時間や環境では大都市に並ぶべくもない地方の楽団が、ピリオド奏法でベートーヴェンの交響曲9曲をすべて演奏したこと自体が、まぎれもない快挙ですし、高知の文化に対する大きな貢献と言えるでしょう。一県民、かつ音楽愛好家として、心からの賞賛を捧げたいと思います。
ただ、このようなアプローチ、奏法やテンポの両面を中心に、演奏者にはかなりの負担になったと思われます。第1楽章など、どこまでも高速移動を強いられる高弦奏者の指はどうにかならないかと思いましたし、管楽器も含め、最後までよく体力がもったものです。ホント、お疲れ様でした。
同時に、この5年間で得た経験を、楽団が今後どう活かしていくかも気になります。次回の演奏会はすべてアメリカ物というまるで対極のプログラムで、これはこれでものっそ興味深いのですが、今後の演奏会で古典派、あるいは前期ロマン派辺りまでを取り上げるとなった時に、どういう演奏になるのか、今から楽しみではあります。