高知市と南国市の境近く、すっかり郊外の風景になったところに、明見橋の停留所があります。
西行の電車が停留所を発ったところ。ここから一条橋を越え、山のふもとをつたうように走ると、次第に高知の市街地に入っていきます。
東行はノーガード電停。交通量もそこそこある国道上に、安全地帯が描かれるのみです。
後免町方面。停留所の手前には標示が描かれ、段差も置かれて運転手の注意を促すようになっています。
西行のホームは屋根もない細いもの。民家がすぐ隣まで迫っていて、勝手口を開けたらそのまま電車に乗れるほどです。
その外壁に、古墳が近くにあるとの案内がありました。時間もあるので、行ってみることにしました。
停留所から南に歩き、小川を渡ります。
高知市内の川や堀、余程大きい川でなければ必ずと言っていいほどいる鯉。
中には色鮮やかなものや変わった柄のものもいて、誰かが持ち去ってしまわないかという気もするのですが、そうしたところで、数が数だけにいなくなることはないのでしょう。
さらに歩くと、道が急に狭まってきます。軽い気持ちで歩き出したのですが、大丈夫かという不安がよぎります。
それでも歩き続けると、再び風景が開けました。ただ、この先がどこに続いているのかは判然としません。
さらに歩くと、道が草で覆われています。辛うじてどこが道かは分かりますが、それだけです。停留所からたったの350メートルが、はるかに長く感じられます。
それでも草をかき分け歩き続けて、ようやく三号墳の近くまでたどり着いたことが分かりました。やれやれです。
三号墳は「古墳」として想像するよりもはるかに小さく、草で覆い尽されています。ただその穴から、古墳であると言われれば、納得はできます。
三号墳の案内板。これを読む限り、古墳としては比較的新しいもののようです。ただ、ここに誰が葬られていたかまでは、まだ分かっていないようです。
さらに歩いて、一号墳の近くまで来ました。後で知ったのですが、二号墳はすでに破壊され現存しないとのことです。
明見彦山一号墳。先程の三号墳と比べると明らかに整備されています。来るまでの道はさておき。
市の史跡指定を示す石碑。先程の三号墳とは扱いの違いを感じます。
高知大学の発掘調査隊が記した報告書によれば、一号墳は土佐の古墳の中では大型の部類に入るもの。その規模から、ここに葬られていたのは現在の南国市の南側の平野部のうち、西半分を支配していた首長ではないかと推定されています。当時としては勢力を持っていた人物の墳墓のようです。ちょっとした寄り道程度のつもりが、いろいろな意味で非日常に入り込んでしまった気分です。
道なき道を含めて引き返し、停留所まで戻ってきました。ようやく現代社会の空気に戻って安堵した、そんな徒歩行でした。