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「地域」研究者にして大学教員がお届けする「地域」のいろんなモノゴトや研究(?)もろもろ。

最後のパイオニア(開拓者)・旭天鵬関引退に寄せて

 ついにこの日が来てしまいました。

 

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 旭天鵬関を始めモンゴル人力士「最初の6人」が来日、初土俵を踏んだのは1992年のこと。この間、モンゴル人力士の中でも中心人物は入れ替わり続けました。「技のデパートモンゴル支店」旭鷲山が鮮やかに駆け回ったかと思えば、朝青龍大関、そして横綱へと登り詰め、人々に消しがたいほどの印象を与えていきました。

 そして今や白鵬の黄金時代。これとて永遠に続くわけはありませんが、日馬富士鶴竜、逸ノ城に照ノ富士、他にも後を襲い得るモンゴル人力士には事欠きません。

 そんな中で、旭天鵬関は脚光を浴びるモンゴル人力士の傍らに常にいました。自らが中心にならずとも、中心となった力士をすぐそばで支え続けました。白鵬の優勝パレードでの旗持ち役など、その象徴と言えるでしょう。

 いや、そんな関取にもスポットライトが当たる日が来ました。2012年夏場所、初優勝としては史上最年長となる幕内最高優勝。そこからさらに年齢を重ねても土俵を続けることで、土俵にいる事実によって、旭天鵬関は人々の注目と尊敬を得たのです。

 「パイオニアの功績は、後に続く者たちがどれだけ成功したとしても消えることはない。彼らはすべてパイオニアの作った道の上にいるのだから」私の好きな受け売りです。

 旭天鵬関は、間違いなくモンゴル人力士としてのパイオニアです。ただ、彼は道を開いただけではなく、後輩たちと一緒にその道を進み続けました。歴史上の存在ではなく、生身の関取として同じ土俵に立ち続けました。モンゴルから異国の地にやって来た力士達には、さぞ心強い存在だったことでしょう。

 そして私からすれば、旭天鵬関は私がモンゴル研究を始めるどころか、そんな研究に携わることなど考えもしなかったほど昔からの力士です。私がモンゴルに関わっている間、旭天鵬関はずっと相撲を取り続けていたのです。

 モンゴルという国の存在すらまだほとんど知られていなかった当時から、モンゴル人力士の存在が日本の人々の間に浸透していき、そしてモンゴルという国名を聞くことがまったく珍しくなくなった、この23年間。旭天鵬関と私は、全く接点はないにせよ、この間の歴史をそれぞれ体験してきたのです。

 それだけに、彼が引退することには寂しさを感じずにはいられません。旭天鵬関のいない番付表を見ることは、まだ想像がつきません。

 ただ、四十路にもなってなお幕内という相撲界最高の場に立ち続けたことには、心から敬意を表したいと思います。

 そして、旭天鵬関がいなければ、「ナライハ」という地名が日本で繰り返し呼ばれることは決してなかったことでしょう。観光地があるわけでもない地味なウランバートル近郊都市の存在を、数え切れないほど日本で宣伝したことも、彼の功績だと私は考えています。

 旭天鵬関、本当にお疲れ様でした。23年半、ありがとうございました。